池田厚子さんによる回想・『思い出の昭和天皇』から
昭和天皇が1989年におかくれになった後、
皇族の方々が昭和天皇の思い出を語る本(思い出の昭和天皇・光文社)が、
同年に出版されていたのを最近になって知った。
『思い出の昭和天皇』は、
三笠宮寛仁殿下(ヒゲの殿下)の呼びかけで出版された本だ。
『思い出の昭和天皇』のなかで、
池田厚子さんが昭和天皇の思い出を語っている。
池田厚子さんは昭和天皇の4番目の娘だ(昭和天皇の次女は夭折)。
2021年現在90歳。
香淳皇后は97歳でおかくれになった。
長寿の御血筋を引いているのだろう。
池田厚子さんによる寄稿はとても珍しい。
『思い出の昭和天皇』という本の出版は、
寛仁殿下が呼びかけ人だったことが大きいのだろう。
『思い出の昭和天皇』で池田厚子さんが丁寧に言葉を紡いでいらっしゃるのが印象的だ。
両陛下と別に暮らす
池田厚子さんを含めた昭和天皇のお子様方は
ある程度大きくなると両陛下とは別に暮らしていた。
昭和天皇の4人の娘は「呉竹寮」という御所内の施設で
いっしょに生活されていた。
呉竹寮は皇居東御苑にあった。今は取り壊されて、ない。
池田厚子さんは学習院初等科入学からご結婚まで
呉竹寮で過ごしたそうだ。
池田厚子さんによる呉竹寮での生活の回想からは、
両親と離れて暮らす寂しさは伝わってこない。
たまに両陛下が訪れたときにいっしょに遊んでもらったことや、
自然の中で遊んだことなど、
楽しい思い出が残っていると池田厚子さんは述べる。
両親と離れた暮らしは寂しい、と我々一般人は思ってしまう。
けれども、ご本人にとっては4姉妹での生活は
それなりに楽しかったようだ。
天皇陛下をお父上にもたれるということ
池田厚子さんは、
人びとが池田厚子さんに一番聞いてみたいことは
「天皇陛下をお父上にもたれるということは、どのようなものですか?」
だったろうと述べる。
これに対して池田厚子さんは
「天皇陛下を父に持つことは意識せずに育った」
と述べる。これには拍子抜けした。
「そう申し上げると皆様、拍子抜けされる」
と池田厚子さん自身も述べている。
池田厚子さんは呉竹寮で生活していて、
週2回、両陛下と食事をするのが習わしだったので、
父の生活を目の当たりにすることがなかった。
ゆえに天皇陛下が父だと強く意識する機会がなかったのだろう。
「天皇陛下と離れて暮らしてので、天皇陛下が父であることを意識しないで済んだ」
ということだ。
結婚式の話
昭和天皇が風邪をひいてしまい、
池田厚子さんの結婚式に出席できなかったそうだ。
結婚式のときには風邪の加減も良くなっていたが、
直後に大使の認証式があったため、
昭和天皇は大事をとって結婚式を欠席したとのこと。
昭和天皇が結婚式に出席できなかったのは悲しかったけれど、
思い直してみると、
天皇陛下は自分の父親だけではなく、日本という国の天皇陛下なので致し方ないことだと
池田厚子さんは語る。
池田厚子さんの話からは、
皇族として生まれたことを悔やむ話は一切聞こえて来ない。
この点は黒田清子さんと共通する。
黒田清子さんもご結婚前、お誕生日の回答で天皇陛下の娘として生まれた心情を述べている。
人によって感じ方は異なる。
皇族として生まれたことを息苦しく感じる人ばかりではないのだ。
岡山へのお輿入れ
池田厚子さんによれば、
天皇陛下は「皇族または元皇族は一人か二人、地方に行った方がよい」
とお考えになっていたそうだ。
池田厚子さんが岡山にお輿入れになってのも、
その考えに基づくものだったと思われる。
池田厚子さんは、
小さい頃から虫などの生き物に興味があった。
理科が好きだったので、進路選択の際も当初は理科を選択したかったそうだ。
小さい頃は同じく生物好きの天皇陛下といっしょに
御所で生き物観察をしたとのこと。
池田厚子さんが岡山で牧場を経営する池田家に嫁いだのも、
昭和天皇が池田厚子さんが生き物に興味があることを鑑みた結果なのだろう。