政治家が不妊治療の経験を公表することについて
不妊治療の経験を公言する政治家(ほとんどが女性)が増えていると感じる。
国会議員から市区町村の議員まで、自己紹介欄に不妊治療の経験を挙げる議員が増えてきた。
中には、「こんなに苦労しているんです」と言わんばかりに具体的な治療の詳細を公開する議員もいる。
ここで不妊治療の是非を問うつもりはない。
不妊治療を受けるかどうかは各人の自由であって、他人がどうこう言うことではないと思っている。
生殖はパーソナルなことだと思っているから、自分の考えを押し付けるつもりはない。
ただ、政治家が不妊治療の経験を公言するとなると、パーソナルなこととは言い切れなくなる。
政治家が不妊治療の経験を不妊治療の経験を公言することで、有権者に何を訴えたいのだろう?
・不妊治療による肉体的・精神的苦痛の大きさ?
・不妊治療の金銭的負担の重さ?
・不妊治療と仕事の両立の大変さ?
それとも、
・不妊治療への保険適用が認められたことの有難さ
・不妊治療を受けている人たちの配慮の必要性
だろうか。
不妊治療の経験を公言することで、同じく不妊治療の経験がある有権者からの共感を得たいのだろうか。
自分が不妊治療をしたときの辛さを多くの人に理解してもらいたいのだろうか。
不妊治療を公言する政治家の方々は、次世代の若い人たちに何を期待しているのだろう。
自らと同じように、不妊治療をしながらも仕事を続けることを若い人たちにも期待しているのだろうか。
不妊治療をしている人への配慮やサポートの必要性を世間に訴えたいのだろうか。
その一方で、不妊治療をせずに、できるだけ若いうちに子どもを持つという選択肢もある。
そちらのほうが肉体的・精神的負担は少ない。
20代から30代前半ならば、不妊治療せずとも子どもを持てる可能性は40代よりもずっと高いからだ。
私ならば、次世代の若い人たちができるだけ苦無く子どもを産み育てられる社会を望む。
政治家による不妊治療経験の公表を「仕事をしながら不妊治療するのが当たり前」という価値観の押し付けのように感じてしまう私は卑屈だろうか。
そもそも生殖はパーソナルなこと。
何らかの事情があって若いうちは仕事にまい進するしかなく、パートナーと巡り合えたのが遅かった、という事情は分かるけれども、それもパーソナルなことだ。
「パーソナルなことをあまり仕事に持ち込んでほしくない」というのが私の正直な気持ちだ。