ピアノ教室・生徒が辞める原因~ますこしょうこ先生の言葉が身に染みます
益子祥子(ますこしょうこ)先生というピアノ講師がおられた。
「おられた」と過去形で記しているのは、ますこ先生は2019年にお亡くなりになったからだ。
ますこ先生は「生徒がやめない!ピアノ教室」という本を出版されている。
ご遺族の方が、ますこ先生がご存命中に書かれたブログをそのまま公開してくださっている。
ますこ先生のブログのなかに、ピアノ教室を辞める生徒について心を打つ記載がある。
ある日、ますこ先生のところに、見知らぬピアノ講師からの電話があったそうだ。
そのピアノ講師はますこ先生に向かって「生徒がどんどん辞めていくが、どうしたらよいのか。上達しない生徒ばかりで困っている。上手い生徒がいない。」と訴えたとのこと。ますこ先生には「非があるのは生徒のほうだ」と言っているように聞こえたのだ。
ますこ先生はブログで訴えかける。
・聞き分けが良くて、言うことを聞く生徒だけがほしいのか。
・生徒を線引きしているのではないか。どんな子も「宝物」だと思わないか。
・教本を先へ先へと進めることが「最も大切なこと」なのか。
・街のピアノ教室が一番大切にすべきなのは「音楽の素晴らしさを伝えること」ではないか。
と。
「ピアノ教室の生徒が辞める原因」について、ますこ先生の強い想いが伝わってくる。
ますこ先生は特別支援学校勤務のご経験があるからこそ「どんな子も宝物」だと思ってレッスンをされていたのだろう。
ますこ先生の著作を読むと、ますこ先生は「ピアノレッスン」というよりも「人間教育」としてピアノレッスンを捉えていたことが分かる。
「どの子も同じ教本で教える。練習して来ない生徒は辞めてもらって結構」~昭和のピアノ教室はそんなやり方で生徒がどんどん辞めていっても、次から次へと新しいレッスン希望者がワンサカやってきた。
でも、少子化のご時世、こんな昭和のやり方はもう通用しない。
今、生徒さんであふれているピアノ教室はますこ先生と同様の方針を採用しているところが多い。
昭和の時代、厳しいピアノレッスンでピアノが大嫌いになって辞めていった子どもは数知れない。
今思うと、当時のピアノレッスンのせいで、たくさんのこどもたちの「音楽が好きになるきっかけ」をつぶされてしまっていたのだ。
ますこ先生がおっしゃるように、こどもたちの「音楽が好きになる芽」を潰すことは罪深いと思う。
今の子どもたちは、保育園・幼稚園の頃から「個」を尊重する教育を受けている。園によって教育方針の違いはあるけれども、昭和の時代よりは確実に「個」を尊重する教育になっている。
今は、こどもひとりひとりの「個」に応じた対応が求められるのが「当たり前」の時代だ。
ますこ先生のブログを読んで考えさせられた。
街のピアノ教室は「音楽教室」というスタンスである方が生徒満足度が高くて長続きするのだ。
このご時世、街のピアノ教室がピアノ上級者の育成だけ目指す「ピアノ専科」としてやっていくのは相当に厳しい。
ピアノに向いている10人に1人だけが長続きするピアノ教室では経営が続かない。
ピアノというのは難しい楽器だ。
ピアノに向いている子(=手が自由に動いて音感が良い生徒)はせいぜい10人に1人か2人だろう。
ピアノに向いていない残り8人に最初からピアノの「芸術性」とか「繊細な音」を求めても、音楽の楽しさ・素晴らしさは伝わらない。
音楽の楽しさを知れば、ピアノレッスンでなくても、ピアノ以外の楽器を嗜んだり作曲を楽しんだりできるのだ。
芸術性を妥協するのがどうしても許せないならば、せめて、最低限「中級者(ソナチネ相当)の育成」を目指すピアノ教室にすればよいのに、と思う。
共働きの増加でわが子のピアノの練習をみる余裕がない保護者が増え、ろくに練習してこない生徒が増えている点はピアノの先生に同情する。
ただ、そうであれば、宿題を工夫するなり、レッスンにソルフェージュ的要素を取り入れるなどの工夫をするなりの対応をすればよいと思う。
この話は、ピアノレッスンに限らない。
ほかの習い事にも塾にも共通する話だ。
塾の無料体験に行くと、いまだに「ウチの塾は意識が低い生徒はお断り」とか「ウチの塾は出来が悪い生徒のための補習塾ではない」みたいなことをいう塾が少なくない。
でも、ひとりで勉強できる子どもは塾に行かなくても自分で勉強できるから、通塾しようと思わないでしょう。
昭和のやり方はもう通用しない時代だ。
流行っている教室には理由がある。