(読書感想)鍵盤の天皇 井口基成とその血族(著者:中丸美繪)
「鍵盤の天皇 井口基成とその血族」はピアニストで桐朋学園大学の初代学長である井口基成(以下敬称略)の伝記である。
鍵盤の天皇 井口基成とその血族(著者:中丸美繪)
600ページを超える力作。
最後のあとがきには、著者である中丸氏が取材開始から20年以上経ってからこの本を出版した、とある。
出版まで時間を要したのは、井口基成のプライベートなことが公になることを快く思わない遺族もいたのも一因のようだ。
しかし親子や兄弟姉妹の代までは「恥」だといわれることも、孫やひ孫の代になると「豪快なおじいちゃん(ひいおじいちゃん)」というふうに好意的に解釈されるものだ。
実は井口基成という人をこの本ではじめて知った。
井口基成がピアノを始めたのは17歳と非常に遅かったことに驚く。それにも関わらず、井口基成は並々ならぬ集中力と馬力で難曲を弾きこなせるようになった。人並外れてエネルギッシュな人である。
井口基成と妹の井口愛子、そして井口基成の妻である井口秋子に師事した名ピアニストは数えきれないほどいる。
しかし、井口基成という人の名前は一般人にはまったくと言っていいほど知られていないと思う。
その原因は、井口基成が最初の妻である井口秋子と離婚して、水商売出身の女性と再婚したためであろう。
基成の妻、秋子は6人の子を産み育てるかたわら、東京芸大教授として多くのお弟子さんを育てた、戦前にドイツに留学してスキーを覚えたような、先進的で才気ある完璧な女性である。
こんな完璧な妻を捨てて若い女性に走った基成に落胆した関係者は少なくなかったのだ。
たとえば坂本龍一・矢野顕子夫妻がそうだが、夫婦双方が芸術家だと上手く行かないケースが多いようである。
この本を読んで私が感じた井口基成の人物像は「豪快なのに繊細、エネルギッシュかつ感情豊かで稚気にあふれて茶目っ気があるのに引くところは引く」憎めない人である。この本を読んでいると、井口基成の人柄に引き込まれる。
井口基成は、ピアニストとしてだけでなく、桐朋学園大学の設立やコンクールの設立、ヤマハなどピアノ製造メーカーと組んで日本の音楽業界を発展させた人である。
井口基成が東京芸大を辞めた後、桐朋を設立する際の経緯がこの本には書かれている。どういう成り立ちで桐朋学園が設立されたのかをこの本で知ることができた。
「英雄色を好む」というが、井口基成はピアニストとしてだけでなく音楽業界のために政治家のような活動をしていた人だったから、夫婦双方が芸術家だと息苦しくなったのだろう。
残念ながら晩年はあまり恵まれた家庭生活を送らなかったようである。
晩年の基成の様子は読んでいてとてもつらい。若い妻はブティック経営に没頭し、病になった基成はほっておかれた。
この本は、日本の高度成長期に井口基成という、エネルギッシュで豪快かつ繊細なピアニストが居たことを記す良著だと思う。