(読書感想)昭和天皇の妹君(著者・河原敏明)

わたしはこの本(昭和天皇の妹君 謎に包まれた悲劇の皇女)を、
近所の図書館からたびたび借りて読んでいる。

この本の著者は、ジャーナリストの河原敏明。

この本は学者ではなくジャーナリストが書いた本なので、
言葉遣いも難しくなく、サクサク読める。

また、きちんと取材をして裏付けをとって書かれているので、
いわゆる「トンデモ本」ではないと思う。

 

1991年出版

この本は約30年前に出版された。

「昭和天皇の末弟(大正天皇の第四子)である三笠宮崇仁殿下には双子の妹がいて、
尼さんをしている」

という噂があり、著者がその裏付けをとるために奔走した内容がこの本に掲載されている。

この本は1991年出版当時、話題になったそうだが、
当時学生だったわたしはよく覚えていない。

なお、三笠宮崇仁殿下は2016年にお亡くなりになったが、
後年、三笠宮崇仁殿下が自身の双子説を否定している。

けれども、三笠宮双子説を否定できないような話がこの本には沢山出てくる。

 

昭和天皇の妹君とされた人物

この本で昭和天皇の妹君ではないかといわれているのが、
奈良・円照寺門跡の山本静山尼である。

この本によれば、山本静山尼は生後、奈良へと連れていかれ、
里親の元で5歳まで養育された後、入門した。

著者が取材した結果、
旧華族関係者の間で「三笠宮双子説」という噂が多く出回っていること、
そして、この噂を裏付けるたくさんの事実があることがわかった。

実際、この本に掲載されている山本静山尼のお写真は、
頬のあたりが高松宮殿下によく似ていらっしゃるのだ。

 

なぜ尼になったのか

この本にも書かれているが、
当時、双子は「畜生腹」といわれ(動物の出産と同じ、という意味)、
忌み嫌われていた。

特に男女の双子は「心中した男女の生まれ変わり」で縁起が悪いとされていた。
もちろん迷信である。

けれども、三笠宮崇仁殿下の母君である貞明皇后は超保守的なお人柄で、
易トや俗信を厚く尊重する性格だったため、
自身が双子を出産したことを隠し、
双子の妹のほうを山本家に託して、仏門に帰依させた、と著者は推測した。

江戸時代には皇族の数を一定数内に保つため、
皇子・皇女が寺に送られることも少なくなかった。

少なくとも明治時代までは、
皇子・皇女が仏門に帰依するのは珍しいことではなく、
ごくありふれたことだった。

昭和に入ってからも華族や皇族の間で
そういった風習は続いていたそうだ。

 

三笠宮双子説を裏付ける事実

著者はこの本の中で「三笠宮双子説」を裏付ける事実をたくさん挙げている。
その一部を紹介する。

たとえば、

・三笠宮崇仁殿下ご誕生の際の時刻が、関係者の証言と2時間ほど食い違っている。
お産に立ち会った関係者は「夕方明るいうちに出産された」と話しており、
出産日は12月だったことを考えると、
「明るいうちに出産があった」ならば、ご出産は遅くとも16時~16時半頃であるはずだが、
公式発表された三笠宮崇仁殿下の出生時間は19時35分だった。

・たくさんの皇室関係者が円照寺を訪問されている。
高松宮や三笠宮は何度も円照寺を訪問されている。
加えて、高松宮妃・三笠宮妃、昭和天皇の4皇女・昭和天皇のお孫様たちも、
たびたび円照寺を訪れている。

・山本静山尼は貞明皇后から特別に可愛がられた。
山本静山尼は貞明構造から内儀に招いて懇談されている。

・生け花には流派がたくさんあるのに、高松宮妃・三笠宮妃を含む皇族方はわざわざ、奈良県在住の山本静山尼からお花を習っている。

・山本静山尼の幼少時にはすでに、小学校への就学率は98%を超えていたにも関わらず、山本静山尼には学校に通わず、寺にて閉鎖的な教育を受けた。

・5歳まで育った里親の元で、山本静山尼は白い羽二重の布団に寝かされていたり、入手困難な魚などの食べ物を優先的に与えられりと、里親の実子と比べて待遇が格段に良かった。

・著者の「三笠宮双子説」が世に出たのち、山本静山尼はさっそく高松宮・三笠宮にお詫びをしたうえで、昭和天皇の侍従である入江侍従長に電話すると「どんな風にしたらいいのだろう」と側近たちが「みな、えらく心配してくれた」事実。

 

「高松宮日記」の記載

この本が出版された後の7年ほど後の1998年に「高松宮日記」が出版されている。

「高松宮日記」とは、1987年に高松宮殿下がお亡くなりになった後、高松宮妃喜久子さまが偶然発見した、高松宮殿下の日記である。

「高松宮日記」の昭和15年(1940年)1月18日には
「15時30分 円照寺着。お墓に参って、お寺でやすこ、山本静山と名をかへてゐた。二十五になって大人になった」
とある。

この記載から、山本静山尼は皇族から「やすこ」と呼ばれていたこと、
そして、高松宮殿下が戦前から円照寺に訪問されていたことがわかる。

「高松宮日記」の編纂には高松宮妃喜久子さまが関与されている。

高松宮妃喜久子さまは、発見された日記を通して2度ほど目を通し、
その後、出版原稿も確認されているので、この記載を知らないはずがない。

加えて、双子の兄とされる三笠宮崇仁殿下の第1子は甯子(やすこ)内親王(近衛甯子)という。

偶然の一致だろうか。

 

感想

この本を読むと、山本静山尼が尼僧として極めて質素な生活をしていたことに驚く。

山本静山尼は動物性の食物を基本的に召し上がらなかったようだ。ゆえに、

・肉を普段食べていないので、肉を扱った食器は匂いが移って獣臭いと感じる

・鰹節でダシをとった汁は臭くて飲めない

・カステラでさえ卵が入っているからとの理由で最近まで召し上がらなかった

・「牛乳は牛の子が飲むものを人間が横取りしているのだから」と執事が説明して
かろうじて牛乳を飲むようになった

植物由来の質素な食生活と毎日のお務めこそが、山本静山尼の気品の源なのだろう。

著者の取材熱心さは伝わってくるが、
著者による山本静山尼への取材がしつこく、
山本静山尼が少々お気の毒だと感じた。

仮に山本静山尼が三笠宮殿下の妹君だったとしても、
山本静山尼が自分で希望して尼になったわけではなく、
尼になったのは周りの関係者がお膳立てしたことだ。

下手なことを発言すれば皇室に迷惑がかかるとの理由で、
山本静山尼は立場上、何も言えない。

山本静山尼を追及しても何も話せないからお気の毒だと感じた。

とはいえ、この本の記載からすると、
山本静山尼が三笠宮殿下と双子だったとは断定できないけれど、
昭和天皇と近い御血筋の方だったのはほぼ間違いないという印象を持った。

山本静山尼自身は、自らの境遇を静かに受け入れていると感じた。

 

謎に包まれた悲劇の皇女 昭和天皇の妹君

著者:河原敏明
初版:1991年3月3日
出版元:KKダイナミックセラーズ