学校はもう、もたないだろう~「タテマエ抜きの教育論」を読んで思ったこと

先日「タテマエ抜きの教育論」という本の読書感想を書いた((読書感想)タテマエ抜きの教育論(木村泰子×菊池省三))。

 

 

「タテマエ抜きの教育論」は正直な本である。

・特別支援級・特別支援学校に在籍する子どもの数の増加

・こどもの薬物治療

・学校への医学モデル(発達検査)の導入

・不登校の子どもの増加

など…「タテマエ抜きの教育論」には今の学校の問題点が「正直に」書いてある

タテマエ抜きに正直に語ってくださった著者に感謝申し上げる。

 

特別支援教育は普及したけれど

「タテマエ抜きの教育論」を読んで、わたしは本当に考えさせられた。

現在小1次男の同級生を見ていると、「手厚く指導してもらえる」という理由で、小学校入学時にすんなり支援級を選択するご家庭が多い。

ここ20年間で特別支援教育が定着した感がある。

「発達障害」という概念も世の中に普及した。

「無理をして普通学級に入れてこどもがつらい思いをするより、手厚く見てもらえる支援級のほうがいい」と考えるご家庭が昔より多くなった。

ところが、子どもが少しでも変わっているところがあると発達検査を受けさせ、特別支援教育に誘導しようとする流れが止まらない。教師不足がその流れを加速させている。

このままいくと「手がかかる子」がますます増えて、支援級に在籍する子どもの数が、普通学級に在籍する子どもの数を上回るかもしれない。「タテマエ抜きの教育論」で著者のおふたりがそう述べている。私もそう思う。

 

学校は「ちょっとでも違う」ことに耐えられなくなった

つらいのは支援級や支援学校に通う子どもたちだけじゃない。

普通学級に居る子どもたちだって、今の学校は窮屈でつらいのだ。

不登校になる子どもは増える一方だ。

普通学級に居る子どもたちだって、支援級や支援学校にいる子どもたちのように、手厚くみてあげたら不登校だって減るはずだ。

 

我が家の小1次男は学校に通ってはいるけれども、本当は学校に行きたくないと言う「不登校予備軍」だ。

「学校はやらされることばかりで面白くない」と次男は話す。

特別支援教育が定着した代わりに、こどもがちょっとでも「違う」ことに学校は耐えられなくなった

こどもを分けて、分けて、分け続けた結果、今の学校がある。

もはや普通学級を変えざるを得ない段階に来ていると思う。

 

でも…最低限の読み書き計算能力を身につけてから社会に出してあげたい

「タテマエ抜きの教育論」は一貫して「こどもの『学びたい』という意欲を育てることが最も重要だ」といいう論調だ。

確かにその通りで、何歳からでも学び直しはできる。

 

でも、率直な疑問がある。子どもたちは大人になってから「学びたい意欲だけ」で乗り切れるのだろうか

勉強であれスポーツであり芸事であれ「何事もコツコツ努力しないと身につかない」ことは共通する。

「鉄は熱いうちに打て」という諺があるが、幼少時に「継続して物事に取り組む」経験をしないと、大人になってから何かを学び始めても結局、途中で断念するのではないか。

そして、生きていくうえでも最低限の読み書き計算はやはり大切だと思う。

 

正直言うと、木村泰子さんの「みんなの学校」になんとなく違和感があるのだ。

その違和感については別にまとめてみる。