(読書感想)菊と葵のものがたり(著者:高松宮喜久子妃殿下)

「菊と葵のものがたり」は、
高松宮喜久子妃殿下の著書だ。

高松宮喜久子妃殿下は、徳川慶喜の孫である。

「徳川おてんば姫」の著者である井手久美子氏は、
高松宮喜久子妃殿下の実の妹である。

タイトルにある菊と葵は言うまでもなく、
「菊」は皇室、「葵」は徳川家を表す。

高松宮殿下と喜久子妃殿下のご結婚はまさに「公武合体」。

この本の前半は、喜久子妃殿下を囲んだ座談会、
後半は、喜久子妃殿下による回想録である。

前半の座談会はテンポ良くサクサク読める。

座談会を読むと、
喜久子妃殿下というお方はなんともお茶目で、
しかも思い切りが良くて決断力があるお方だと分かる。

宮内庁の反対を押し切り「高松宮日記」の出版に踏み切ったり、
スピード違反で警察に捕まった件で宮内庁から注意を受けたりと、
喜久子妃殿下の豪快なエピソードが本書にいくつも掲載されている。

喜久子妃殿下いわく、
先の戦争で亡くなった多くの命の為にも「高松宮日記」の出版を決意した、
とのことだ。

また、読売新聞の一部地域版で誤って「故人」として報道されてしまい、
読売新聞の社長(ナベツネ)が謝罪に来たときの謝りっぷりがあまりにも潔かったので、
座談会を引き受けたという話が載っている。

故人にされたという理由で自らを「幽霊」と名乗るなど、
喜久子妃殿下はユーモアにあふれた御方である。

なにせ高松宮殿下がお亡くなりになった後に発見された日記をもとに、
宮内庁の反対を押し切って「高松宮日記」を出版したのだから、
喜久子妃殿下というのは、度胸があるお方だ。

そのほか、印象に残った話を以下、いくつか紹介する。

 

高松宮殿下の硫黄島訪問

橋本龍太郎が厚生事務次官だった頃、
橋本龍太郎とともに、高松宮殿下は硫黄島を訪問している。

第二次世界対戦で激震地だった硫黄島。

米国の兵隊によって生き埋めにされたたくさんの日本兵の遺骨が、
硫黄島には未整理の状態で残っていた。

骨のかけらが残る洞窟を前に高松宮殿下は瞑想状態に入られた後、
地表から硫黄ガスが出ている洞窟の中に、
高松宮殿下はひとりで裸足で入っていったのとのこと。

後にも先にも、
硫黄島の洞窟に裸足で入っていたのは高松宮殿下だけ、だそうだ。

 

昭和天皇の訪欧を実現させたこと

驚くべきことに、大正10年の訪欧以来、
昭和天皇は50年間も外国訪問がなかった。

喜久子妃の働きかけがきっかけで、
昭和天皇の50年ぶりの欧州訪問が実現したとのこと。

 

愛新覚羅溥儀の訪日と貞明皇后

満州国皇帝だった愛新覚羅溥儀が昭和15年に訪日したとき、
貞明皇后が茶の湯を大いにもてなした。

喜久子妃殿下の回想によれば、
お庭散策で溥儀皇帝が貞明皇后のお手をとるなど、
溥儀のふるまいが紳士的だったのが強く印象に残ったとのこと。
貞明皇后の実の息子たちはそんなことはしなかったそうだ。

貞明皇后は秩父宮と高松宮の間におひとり流産されていて(豊島岡に小さなお墓がある)、
溥儀のお姿に亡き皇子を重ねていたようだと喜久子妃は回想する。

溥儀の人柄には諸説あるので、実際のところは分からない。
けれども、溥儀が貞明皇后に見せた立ち振る舞いは心からのものだったと信じたい。

 

昭和5年の欧州訪問

喜久子妃殿下が18歳のとき、
高松宮殿下と一緒に欧州諸国を訪問した。

今から90年以上前、
昭和5年(1930年)当時は船旅で、
欧州24か国を14カ月かけて回った。

喜久子妃殿下も回想するように、
若くてまだ何も知らなったからこそ、
こんな長旅ができたのだろう。

なかでも、
イギリス王室を訪問したとき、
当時4歳のエリザベス女王の堂々とした立ち振るまいに驚いたと、
喜久子妃殿下は振り返る。

 

菊と葵のものがたり

宜仁親王妃喜久子
初版:1998年
中央公論社