紀宮さま・皇族として最後のお誕生日の回答【平成17年】
眞子さまの結婚会見を見て、黒田清子さんのご結婚のとき、黒田清子さんは何を語ったのかと、ふと思った。
今回は黒田清子さんが結婚した年(平成17年)の「黒田清子さんが降嫁するにあたっての皇后陛下のお気持ち」と「黒田清子さんの誕生日会見の回答」を記す。恣意的にならないよう全文を載せることにした。
美智子さま(当時:皇后陛下)のお言葉:平成17年(紀宮さまが嫁がれる年)
皇后陛下お誕生日に際し(平成17年)より、紀宮さま降嫁に際しての美智子さまのお言葉を抜粋した。
問3 紀宮さまの嫁がれる日が近づきました。初めて女のお子様を授かった喜びの日から,今日までの36年の歩みを振り返り,心に浮かぶことや紀宮さまへの思いを,とっておきのエピソードを交えてお聞かせください。そして皇族の立場を離れられる紀宮さまに対して,どのような言葉を贈られますか。
皇后陛下のご回答
清子は昭和44年4月18日の夜分,予定より2週間程早く生まれてまいりました。その日の朝,目に映った窓外の若葉が透き通るように美しく,今日は何か特別によいことがあるのかしら,と不思議な気持ちで見入っていたことを思い出します。
自然のお好きな陛下のお傍で,二人の兄同様,清子も東宮御所の庭で自然に親しみ,その恵みの中で育ちました。小さな蟻や油虫の動きを飽きることなく眺めていたり,ある朝突然庭に出現した,白いフェアリー・リング(妖精の輪と呼ばれるきのこの環状の群生)に喜び,その周りを楽しそうにスキップでまわっていたり,その時々の幼く可愛い姿を懐かしく思います。
内親王としての生活には,多くの恩恵と共に,相応の困難もあり,清子はその一つ一つに,いつも真面目に対応しておりました。制約をまぬがれぬ生活ではありましたが,自分でこれは可能かもしれないと判断した事には,慎重に,しかしかなり果敢に挑戦し,控え目ながら,闊達に自分独自の生き方を築いてきたように思います。穏やかで,辛抱強く,何事も自分の責任において行い,人をそしることの少ない性格でした。
今ふり返り,清子が内親王としての役割を果たし終えることの出来た陰に,公務を持つ私を補い,その不在の折には親代りとなり,又は若い姉のようにして清子を支えてくれた,大勢の人々の存在があったことを思わずにはいられません。私にとっても,その一人一人が懐かしい御用掛(ごようがかり)や出仕の人々,更に清子の成長を見守り,力を貸して下さった多くの方々に心からお礼を申し上げたいと思います。
清子の嫁ぐ日が近づくこの頃,子どもたちでにぎやかだった東宮御所の過去の日々が,さまざまに思い起こされます。
浩宮(東宮)は優しく,よく励ましの言葉をかけてくれました。礼宮(秋篠宮)は,繊細に心配りをしてくれる子どもでしたが,同時に私が真実を見誤ることのないよう,心配して見張っていたらしい節(ふし)もあります。年齢の割に若く見える,と浩宮が言ってくれた夜,「本当は年相応だからね」と礼宮が真顔で訂正に来た時のおかしさを忘れません。そして清子は,私が何か失敗したり,思いがけないことが起こってがっかりしている時に,まずそばに来て「ドンマーイン」とのどかに言ってくれる子どもでした。これは現在も変わらず,陛下は清子のことをお話になる時,「うちのドンマインさんは・・・」などとおっしゃることもあります。あののどかな「ドンマーイン」を,これからどれ程懐かしく思うことでしょう。質問にあった「贈る言葉」は特に考えていません。その日の朝,心に浮かぶことを清子に告げたいと思いますが,私の母がそうであったように,私も何も言えないかもしれません。
黒田清子さん(当時:紀宮さま)のお誕生日の回答(平成17年)
特殊な立場にあって過ごしたことは、恵まれていた面も困難であった面もあったと思いますが、温かい家庭の中で、純粋に「子供」として過ごすことができ、多くの人々の支えを得られたことは、前の時代からは想像もつかないほど幸せなことで、深く感謝しております。
物心ついた頃から、いわゆる両親が共働きの生活の中にあり、国内外の旅でいらっしゃらないことが多かったことは、時には寂しく感じることもありました。
皇族の役割や公務について、初めて深く考えるようになった時期は、高校に入った頃かと思います。皇族の子供は成人になるまで公務に携わることはなく、急に公務に入るため、内親王としての自覚はあっても皇族の仕事に触れたことのない私には、成人してからの全てが大変不安な時期でもありました。
そのような折に両陛下とご一緒した高校総体体育大会は、印象深いものでした。成人するまでに両陛下と地方におけるご公務でご一緒できる唯一の機会だったからです。幼い頃からご両親と離れて過ごされ、他の皇族より早い18歳で成人を迎えご公務におつきになった陛下の時代を顧みますと、機会を頂けるだけでも大きな恩恵だと思います。
当時は、この機会に両陛下のお仕事の全てを吸収しなければというような、今思いますと少し笑ってしまいそうなほど、かなりの切羽詰まった感じを抱きつつ臨んだことを記憶しております。
高校総体だけで日々のお務めに寄せる姿勢が全てわかったわけではありませんが、ご訪問の先々で人々に対されるご様子や細やかなお心配り、暑さの中、身じろぎもされず式典に臨まれるお姿などより、多くのことを学ばせていただいたように感じております。
この頃は、両陛下がお忙しい日々のご公務を欠くことなくお務めになる傍らで、私たちの話に耳を傾けられ、朝には皇后さまがお弁当を作ってくださり、学校に出掛けるときにはお見送りくださるという日常が、どんなに恵まれていたかということにすら気が付いてはいなかったものです。
国内外の務めや宮中の行事を果たす中には、失敗や後悔もあり、未熟なために力を尽くせなかったと思ったことも多くありました。目に見える「成果」という形ではかることのできない皇族の仕事においては、自分に課するノルマやその標準をいくらでも下げてしまえる怖さも実感され、いつも行事に出席することだけに終始してしまわないよう自分に言い聞かせてきたように思います。
両陛下から学んだことは、悲しみの折にもありました。事実に基づかない批判にさらされ、平成5年ご誕辰(たんしん=誕生日)の朝、皇后さまは耐え難いお疲れと悲しみの中で倒れ、言葉を失われました。振り返ると、誰を責めることなくご自分の弱さを省みられながら、ひたすらに生きておられたご様子が浮かび、胸が痛みます。
日ごろから強く感じるのは、皇后さまの人に対する根本的な信頼感と、他者を理解しようとするお心です。皇后さまが経てこられた道には沢山の悲しみがあり、多くは誰に頼ることもなくご自身で癒されるしかないものもあったと思いますし、未だに癒えない痛みも持っておられるのではないかと感じられることもあります。
皇后さまが「誰もが弱い自分というものを恥ずかしく思いながら、それでも絶望しないで生きている。そうした姿を認め合いながら、懐かしみ合い、励まし合っていくことができれば…」とおっしゃった言葉がよく浮かびます。どのような人の傍らにあっても穏やかに温かくおられる皇后さまのお心の中に、この言葉が息づいていることを私は感じております。
36年という月日をもってしても、どれだけ両陛下のお立場の厳しさやお務めの現実を理解できたかはわかりません。他に替わるもののないお立場の孤独を思うときもありますが、陛下がたゆまれることなく歩まれるお姿、皇后さまが喜びをもってお務めにも家庭にも向かわれていたお姿は、ずっと心に残り、これからの日々を支える大きな力になってくれると思います。
感想(美智子さま・紀宮さまのお言葉を読んで)
美智子さまのお言葉
美智子さまは黒田清子さんのご結婚に寄せて、嫁ぐ娘への思いをエピソードを交えながら述べられた。
一方、眞子さまのご結婚直前の紀子さまのお誕生日のお言葉には、嫁がれる眞子さまへのお気持ちは一切なかった。
成年皇族として真摯に公務をされていた眞子さまを暖かく送り出せるご結婚にならなかったことは本当に残念だ。
紀宮さまのお言葉
紀宮さまのお言葉から、紀宮さまご自身がどのようなお気持ちで公務に取り組まれていたかがよくわかる。
皇族の方々がこのような発言をされる機会は普段ないから、上記の紀宮さまのお言葉は貴重な資料だ。
成年皇族になられてから結婚を迎えるまでに眞子さまが公務に熱心に取り組まれていたことは間違いない。
けれども眞子さまのご結婚会見では、眞子さまが皇族として「公務」をどう思っていたか・ご両親や天皇皇后両陛下・上皇状皇后両陛下の公務に対する考え方についてどう感じていたかについての発言はなかったのは残念だ。